聖書に以下の事を学ぶ。
「太陽の下、再び私は見た。
足の速い者が競争に、強い者が戦いに必ずしも勝つとは言えない。
知恵があると言ってパンにありつくものでも、
聡明だからと言って富を得るものでも
知識があると言って好意を持たれるものでもない
時と機会は誰にも臨むが
人間がそのときを知らないだけだ。
魚が運悪く網にかかったり
鳥が罠にかかったりするように
人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」
勝負という者は、強い者が勝つのではなく、勝ったものが強いとされる。どう考えてもこちらの方が強いのに、神様のいたずらで何故かあちらが勝ってしまうこともある。ジャイアントキリング、サッカーの世界では稀にある。神様もいたずらである。
どんなに優秀な才能を持っていたとしても、その結果がまた優れているとも限らないし、社会に評価されるともいえない。金銭的に財産を持ったというだけならば、どんなに嫌な奴でも、無能な奴でも宝くじに一回当たれば、もう人生ゴールだ。
釣られた魚も、罠にかかった鳥も、数多くあるうちの一匹や一羽にすぎない。それらが間抜けだから釣られたわけでも罠にかかったわけでもない。たまたま誰か釣り人が、糸を垂らしていたときに、その魚が川を通りかかってしまっただけなのだ。
同じように、人間もたまたま歩いていたら交通事故に遭ったり、通り魔にあってしまって命を落とすことだってある。毎日神様に祈り、お布施をしていれば、そんな目に合わないとも言い切れない。もちろん神様に祈り通しで外出しなければ交通事故には遭わないかもね、というだけの話だ。
むしろ人生は努力や実力というよりも、運に左右される。しかし、その運を掴めるような状態に準備しておくしかない。その準備とは、聡明であって、知識を蓄え、知恵を持つこと。やはり普段は実力をつけ、努力をすることでしか、運をつかむチャンスをものにできない。そうしなければ、目の前にチャンスが通り過ぎ去っても、それがチャンスであると認識することができない。
まさに「時と機会は誰にも臨むが、人間がそのときを知らないだけ。」将来起きる時がわかっていれば、それに事前に対応することができるが、将来のいつ起こるかわからないから、事前に対応するのではなくて、いつでも対応できるように、コツコツと事前に準備しておくしかないのである。
[教訓]
〇運が良くなければ成功者にはなれない。
〇しかし運を引き付けるにはやはり努力が必要だ。
〇いつのタイミングで、そのときがやってくるかわからない。いつでも対応できるようコツコツ準備しておくしかない。