聖書に以下の事を学ぶ。
ヨハネの黙示録とは、新約聖書の最後に収められている。預言書というよりも、文学のイメージが強い。迫害されるキリスト教徒に対して、自らも迫害されていたヨハネが、信者を叱咤激励するために書いた作品と言われている。
全体的なストーリー構成は、あるとき子羊が神様から巻物を渡され、その7つの角と7つの目を持った子羊が7つの巻物の封印を解き、その度に地上に災いが降り注ぎ、7つ目の封印が解かれる。次に7人の天使にラッパが与えられ、ラッパが吹かれると、神からの怒りが注がれる。惨事がエスカレートし、世界に週末が訪れる。しかしその後、地上に千年王国の時代が訪れ、キリストが悪魔を幽閉。しばらく幸せの時代が続くも、悪魔が再び現れ、人々を惑わす。但し神の前に敗れる。そこで最後の審判が行われ、生前の行いによって、天国へ行くものと地獄へ行くものが振り分けられ、天国への切符を手にした人々は、新しい聖なる都、神の王国エルサレムで暮らすことになる、というものであった。
これをあえて、経営者に対する送る言葉とするならば、起業後、様々に起きる災難(試練)を、自らの信念を信じ切って、乗り切ったものだけが、成功者となれるということになる。
日本人はおそらく死ぬまで仕事をするようにならざるを得ない。退職後のんびりできるのは、それまでに資産形成ができた人に許された特権だろう。それはごく一部の資産家であって、雇われ人が資産家になれるケースは、極希な時代がこれからやってくる。雇われ人であるときに、自らが自分で食べていけるようにしておかないと、生活できない地獄(生き地獄)がやってくる。まさにハルマゲドンだ。最後の審判で地獄行きを命じられた人と言える。
老人になる前に、老人後の仕事を抑えておく、そんなスタイルが余儀なくされる。できる限り能力のある人は、起業しておいた方が身のためだ。サラリーマン生活が長いと、自分で生きる能力を養えなくなる。
起業したからと言って、バラ色の人生が保証されるわけではない。しかし自分で自分の生活を保証するしかない。政府は何もしてくれないと思った方がいい。彼らができることは、我々の税金を上げること、我々からの年金の取り分を増やすこと、そして我々への年金の老後の支払いを少なくすることしかない。後はサッサと我々に死んでくれ、年金の原資が足りないからと祈っているだけか。別に個人の生活を面倒見てくれるわけではないのだ。
最後の審判で天国に行ける人は稀で、地獄行きが大半だろう。そうであれば、天国でも地獄でもない状況を自らの手で作っておくしかない。それが起業なのだ。起業だからと言って構えなくてもいい、大きなことをやらなければならない理由もないし、大きな借金を背負う必要もない。生活できるだけの細々収入でいいのだ。それならばリスクはそれほど大きくもない。
また、天国と地獄を他の言葉で定義づけしてみると、(現世の)天国に行ける人は、自らの周囲をコントロールする側であって、(現世の)地獄に行くしかない人は、そもそも生活の心配もしなければならない人でもあるが、逆にコントロールを受ける側の人だ。前者が経営者(及びその取り巻き)であるとすれば、後者は、従業員ということになる。そして定年退職後は、おさらばになる人種である。
どちらがいいかは明白だろう。政府の働き方改革は、本当にありがたいことだが、残業が減る分、高給取りと安月給に二極化される。そこでも天国と地獄に分かれる。いつの間にハルマゲドンがあったんだという世界はもうすぐそこだ。
定年退職まで残れる人もごくわずか。もちろん残れるように、自らのマーケット価値を最大限に高め、その間に資産形成まで完了できれば最高だが、そんな恵まれている人は限られている。だから、会社から捨てられる前に起業をして、慣らし運転をしていなければならない。そのためにはできる限り若いうちの方が良いだろう。いざ失敗したというときはサラリーマンへ戻れる年代の方が。
[教訓]
〇普通の人にとって、起業する以外に、老後の心配をせずに済む方法はない。老人は雇ってもらえないと覚悟せよ。体力的に働けないのもわかっているだろう。
〇起業は慣れも必要だ。失敗も想定し、若いうちにトライしておいた方がいい。
〇若ければいつでもサラリーマンに戻れる。年を取ってからでは戻れない。