永遠など人の世に存在せぬことを知りながら、人はなお永遠を求めずにいられない。宇宙の法則に背馳するこの欲求こそが、あるいは歴史を作り続けるのだろうか。
「ブルース・アッシュビー提督は、名声の永遠を信じたのだろうか」
そうも考えてみるが、35歳の若さで人生の中断を強いられたブルース・アッシュビーとしては、そのようなことまで思う心境になっていなかったであろう。享年35歳。まだはるかに、過去より多くの未来を有していたはずの年代である。死の瞬間まで覇気と野心に満ち、前方を見据えていたに違いない。臨終の言葉は、不敵なほど陽気な冗談だったではないか。
(解説)
永遠というのは美しい響きだが、目に見えるものに永遠はない。これは新約聖書におけるコリント人への第二の手紙「わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである」の一説にある。
永遠はないと知りながらも、永遠であってほしい、という気持ちが、歴史を作り続けるエネルギーになる。子孫の永遠的な繁栄、このために子供のために美田を残そうとするが、その子孫が、先祖から頂いた資産を大切にする保証はない。中には三代でなくなるような相続税が悪いという制度のせいにする奴もいるが、目に見えるものに永遠の輝きを求めようとするあさましい姿勢の方が問題だ。
まだ子孫のことを考えて、これは血を分けた子孫というだけではなく、自らの思想の紡ぎ手のことを考えて死ねるのは幸せかもしれない。アッシュビーについては、戦争で命を散らすが、事故で一瞬のうちに命を奪われてしまう場合もある。
でも、子孫のことを考えるということは、逆に言えば、自分のことは考えないわけであるから、これはこれで、寂しくも思える。自分は人生については、もはや思い残すことはないと思っていることになる。定年退職をしてその後ゴルフやって楽しんでいる連中を見ると、あんまりうらやましくも思えない。
つらくとも常に人生現役という人生の方がハリがある。どんなに老人だと思われていても、死の瞬間まで覇気と野心に満ち、前方を見据えることのできる人生ってどんなにすばらしいことではないかと思う。できれば、自分のやり残したことを、引き継いでくれる人がいればなおよしである。いつ死ぬかはわからない。とにかく一瞬一秒、なるべく無駄なく真剣に生きたいと思う。
見えるものを残しても仕方がない。見えないものをこそ残せ。それこそ、社会を発展させる原動力になりうるのだ。
(教訓)
〇見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く。
〇見えないものを残そうとするエネルギーが、社会を発展させる原動力になりうる。起業家は目に見えないもの、無形資産こそ残せ。