「どうも好かんな」
通信パネルの中で、ビュコック中将が白っぽい眉の根を寄せている。ヤンは同意の印にうなずいた。
「不吉な色ですね、確かに」
「色もだがな、この恒星の名もだ。気に入らんのだよ、わしは」
「アムリッツァ、がですか?」
「頭文字がAだ。アスターテと同じだ。わが軍にとって鬼門としか思えん」
「そこまでは気づきませんでした」
老提督の気に病みようを嗤う気にはなれなかった。
半世紀を宇宙の深淵の中で送った宇宙船乗りには特殊な感性と経験則があるのだ。アムリッツァを決戦場に指定した総司令部の判断よりは、迷信じみた老提督の言の方に理を感じたくなるヤンだった。
(解説)
迷信とは人々に信じられていることのうちで、合理的な根拠を欠いているものである。
名前が同じだから、同じ結果だ、と信じるのも確かに全く合理的な根拠がないのだが、AだからBというのは短絡的に過ぎるものの、案外、長い間経験を持った人という者は、いくつかの事情を絡め合わせて、結論を導き出していることがある。
それを表現しづらいから、表現しやすい言葉で、アスターテも頭文字がA、アムリッツァも頭文字がAだから不吉だといっているにすぎない。そのため、単なる迷信だとバカにしない方がいい。もっとも、ビュコック中将の言葉は、社会的に信じられている迷信ではなく、ヤンも言う通り「迷信じみた」と老提督の言であり、むしろ歴戦の勇士の勘に近いものだ。
長年の経験がない人でも、多感的な人物の直感は割に当たることがなくもない。それは、頭の中で複合的な計算を瞬時のうちに行っているからである。もっとも勘は絶対に当たるとも言い難い事もまた確かである。
そしてここでヤンが比較しているのは、歴戦の勇士の感性と経験則と、現場に出てこない総司令部の判断のどちらを信じるかということである。会社においても、本社勤めの頭脳集団の戦略よりも、往々にして現場の判断の方が正しいことがある。当然、現場も知り、大局的に物事を見られるのがベストであることは言うまでもない。
(教訓)
〇勘をバカにするな。
〇現場を知り、大局的に物事を見よ。木を見て、森も見よ。