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徳の必要性

ヒルダは説いた。
「ヤン艦隊等に目もくれず、惑星ハイネセンを陥し、同盟政府を降伏させるのです。そして彼らをしてヤン・ウェンリーに無益な抗戦をやめるよう命令させれば、戦わずして征服の目的を達せられましょうに」
「そして私は純軍事的にはヤン・ウェンリーに対して敗者の位置に立つことになるな」
「・・・」
「いや、だめだ、フロイライン。私は誰に対しても負けるわけにはいかない。私に対する人望も信仰も、私が不敗であることに由来する。私は聖者の徳によって兵士や民衆の支持をうけているわけではないのだからな」

(解説)
世間的に優れた経営者がいらっしゃる。で、本当にこの人たちって優れているんだろうか、と疑問に思ったことはないだろうか。我々は優れているという基準を、成功した人ということにしていると思うが、その成功はおそらく資産家であるということであろう。いわゆる金銭的な成功者で、事業を経営した人を、吾々は優れた経営者と呼んでいるだけであろう。

金銭的な成功者で、その過程を全て、神様が見ていたとする。想像するに、聖人君子であるとはとても思えない。そもそも聖人君子であったら、そんなお人よしは、事業で成功することはあり得ないと思う。

アメリカ合衆国のトランプ大統領は、まあ、徳があるようには全く見えないが、人生としては間違いなく成功者に入るし、不動産事業家でもある。でも彼は6回も破産している。日本では6回も破産したら、流石に落伍者と言われるだろう。それに、破産したという事は借金を踏み倒された人がそれだけいるということを意味する。どこが聖人君子だろうか。

おそらく、成功者の中で、他人に財産的な損害を全く与えずに、今の地位を築いた人なんて誰もいない。どこかでなんらかのトラブルを犯している。

ラインハルトは、「私に対する人望も信仰も、私が不敗であることに由来する。私は聖者の徳によって兵士や民衆の支持をうけているわけではない」という。でもそれは仕方がない。民衆は金銭的実績でしか評価をしないのだから。そして実績を上げた人がその後で、勝手に反省して、「徳」と言いだすケースがあるのかもしれない。

その実績で我々は腰が引けたりもするが、私生活も見たことはないんだし、公私とも清廉潔白かどうかわからんではないか。実績だけでしか見ない我々の度近眼を直さなければ、ずるがしこい人間が徳をする社会は変わらんだろうと思う。

(教訓)
〇優れた経営者だからと言って、聖人君子とは限らない。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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