「お若いの、若さと老いとの間には厳然たる差があるのだよ。若さとは何かを手に入れようとすることで、老いとは何かを失うまいとすることだ。・・・」
「・・・若さとは社会的な正義を求めるのにためらわぬことだ・・・」
(解説)
カイザーリンクは、クリストフ・フォン・バーゼルの妻に対して、以前、恋心を抱いていたことがあった。そのカイザーリンクの言葉である。
若さと老いというのは、肉体年齢の問題ではないと感じる。もちろん肉体年齢の老いは、メンタルにも影響を与える。若い時と違って、徹夜ができなくなっているし、休みを取らないと体が言う事を聞かなくなってくる。明らかに無理はできない。
しかし、守りに入っている若者と、未だに攻め続けている老人を見るに、どちらが若いのかと疑問に思ったりもする。老人でもギラギラしている。アグレッシブな人はいるものだ。カイザーリンクが若さとは何かを手に入れようとすること、老いとは何かを失うまいとすることというが、その定義からすると、人間守りに入った時点で老いた、ということなのだろう。若くてサラリーマンやってのんびりしている人間と、世間的には定年退職をしている年代にも関わらず、新規事業を仕掛けている。その新規事業が無謀なことだとしても、脱帽である。
また、若いうちは何かと、正義にこだわりたがる。それが社会的正義と言えるのか、あるいは個人が勝手に考える正義なのかはさておき、不正に挑む気持ちがあった。しかしだ、年を取ってくると、そんなことが段々どうでもよくなり、長い物には巻かれろが口癖になる。ここでも、老いを感じてしまう。恐らく若いうちは、自分の求める正義こそが、社会的正義だと信じることなのではないか。まあ、そのうち、自分の求める正義が社会的正義と異なっている気もするし、そもそも正義自体胡散臭いことに気づいてしまう。正義とは所詮、人の数ほどある概念にすぎない。正義を振りかざす奴こそ、大抵不正義であることは、過去の歴史が物語っている。
何歳になっても、人間はチャレンジできる。考えてみれば、起業して失うことは、お金か、不安定になった時の家族か。そう思うこと自体が老いなのだ。何歳になっても若くあれ。
(教訓)
〇若さは何かを手に入れようとすること、老いは何かを失うまいとすること。
〇チャレンジしなくなったら、老いた証拠である。
〇リスクを負わなくなったら、老いた証拠である。
〇どんなに肉体年齢が年をとっても、チャレンジし、リスクを負っている限りは若い。