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粘れば目標は達成する

織田信長と共闘していた徳川家康に学ぶ、

徳川家康は、武田信玄の矛先が浜松城に向かうと考え、籠城支度をしていたが、信玄はこれを通り過ぎて三方ヶ原に向かった。家康は、信玄の背後を突くべく、出陣。信玄は傾斜によって徳川軍から死角となる地に布陣を整え、家康の到来を待ち構えた。

しかし徳川家康と織田信長の連合軍(佐久間重盛)が武田信玄に敗退。両軍の布陣は徳川方が鶴翼の陣、武田軍が魚鱗の陣を取った。本来、鶴翼の陣は数が優勢な側が相手を包囲するのに用いる陣形であり、魚鱗の陣は敵中突破を狙うのに用いる陣形だが、数に劣る徳川軍(8千以下)、数に勝る武田軍(3万余)はそれぞれ定石と異なる布陣を敷いた(別の書物では鶴翼の陣も、魚鱗の陣も採用していないという見方もある)。

この合戦で、家康は信玄の策略に引っかかりおびき出され、命からがら逃げかえった。浜松城に戻った家康は、追撃隊に対して、空城の計を行った。全ての城門を開き、余裕を取り戻した家康の姿に、警戒心を強め、そのまま引き上げたという。さらに浜松城北方約1キロにある犀ヶ崖付近に野営中の武田軍を夜襲。混乱した武田軍の一部の兵が犀ヶ崖の絶壁から転落、崖に誘き寄せるために徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけ、これを誤認した武田勢が殺到して崖下に転落したなどの策を講じ、その結果、多数の死傷者を出したという。

(解説)

ここではそれぞれの陣を取ったとして話を進める。徳川方が鶴翼の陣を取ったのは、信玄の本隊ではなく、待ち構えているのは少数であると予想した。あるいは兵力を大きく見せることで相手の動揺を誘おうとした。武田軍が魚鱗の陣を取ったのは。大将首を討ち取ることに狙いを絞った(鶴翼は両翼に比重を置くため中央は必然的に薄くなる)。あるいは織田軍の支援が多いと見積もっていた。

時にはセオリーを無視して、状況判断を行って最善策を取れ、と言うことを意味している。ひょっとしてお互いの勘違いだったともいう説もあるが、家康にしても信玄にしても、お互いがそこまで勘違いをするような武将にも思えない。どちらかが勘違いをするようなことはあったとしてもだ。それに、名将たる両武将にとって、家康は、兵力を大きく見せ、動揺を誘おうとした、信玄は大将首を討ち取るために一点突破を狙ったという方が、彼ららしい。

しかも家康の策略は続く。まずは諸葛孔明顔負けの空城の計。城を開城すれば、中に伏兵がいると勝手に警戒してくれる。ましてや家康がそんな間抜けなことはするまいと思うのである。加えて、夜襲に加え、布を張って橋に見せかけ、そこからがけの底に叩き落すといった策を講じている。これでもか、と言ったくらいの策略のオンパレードだ。考えつくことをとにかくやってみるということが大切だと改めて教えてくれる。

[教訓]

〇ときにはセオリーを無視して、状況判断を行って最善策を取れ。

〇作戦は多ければ多いほどいい。数多くやってみて、そこで効果的な方法を探せ。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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