織田信長に学ぶ、
将軍足利義昭が、信長相手に反旗を翻したが、信長の敵ではなく捕らわれた。信長の恩を忘れて敵対したのであるから、切腹させても良いのだが、天の道に背いて恐ろしく、今後の成り行きにも差しさわりがあるとして、命を助けて追放し、後の世の人々の批判にゆだねることにした。そして将軍の嫡子を人質として預かり、「恨みに恩で報いる」とした。
また、この度の戦乱にて状況に放火したため、町人は迷惑をしていると思い、諸税を免除した。その結果、たちどころに町々・家々は元通りに復興した。
(解説)
時代背景を説明する。義昭は上洛し、室町幕府15代将軍に就任した当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長と次第に対立を強め、信長が義昭に17条の意見書を突きつけ、対立が決定的となった。義昭は浅井長政、朝倉義景、石山本願寺を先導し信長を攻撃。その後に上場の戦いでは義昭自身が松永久秀、三好義継、三好三人衆と結んで挙兵。一時、正親町天皇から和睦の勅命が出され、信長と義昭は受け入れるも、義昭が勅命を破棄して再度挙兵。義昭は槇島城の戦いにて、捕えられた。
信長にしても義昭にしても、お互いに利用価値が合ったため利用しあったというのが本当のところだろうが、京に建てられた民衆の声は一つの真実と言える。「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」(信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花を打つ音がすることだ)」
義昭には権限はあったのかもしれないが、実力は信長に依存していた。もちろんその権限が強大な者であったこともまた確かなのだろう。組織においては、権限と実力を兼ね備えていれば何の問題もないのだが、たまに権限はあっても実力がないという上司がいる。それで権限を振りかざすのは一番よくないが、実は権限はなくとも、給料にも差をつけると、どこかで歪みを生むことは心得ていた方がいい。
さて、信長は義昭を罰することはなかった。痛い目に遭わされてもそれを赦したのである。もっとも征夷大将軍だったということもあったのかもしれない。天皇の勅命を大事にしたのかもしれないが、懐の深さは、リーダーシップにおいて重要だ。いちいち声を大にして怒っていては、バカのそしりを免れない。それはリーダーではなく単なるクレーマーだ。
一番とばっちりを食らったのは放火された町人だったから、信長はその辺のケアも行っている。リーダーは全方面に気を効かせなければならない。
[教訓]
〇実力に応じた権限を与えよ。
〇権限だけの人材は、組織にどこかで歪みを生む。例えば、役人の天下りのごとく。
〇恨みに恩で報いることで、人格の株を上げよ。