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成功に必要なのは肩書か実績か

織田信長に学ぶ、

信長の父、信秀が流行病にかかり、42歳で死去した。

信長が焼香に立った。その時の信長の出で立ちは、長塚の太刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻き立て、袴もはかない。仏前に出て、抹香をかっと掴んで仏前へ投げかけて帰ってきた。

信長について「あの大バカ者が」と口々に取沙汰したが、その中で、筑紫から来た旅僧一人だけが、あの方こそ国持ち大名になるお人だと言ったとか。

(解説)

織田信長の若いときは、奇妙な振る舞いが多く、大うつけ者呼ばわりをされていた。そのため、信秀が死去したときには、信長が織田家を衰亡させるのではいかと周囲の人々は思っていた。そのため、三男ながら家督を継いだ信長に対して、反旗を翻すものが少なくなかった。まずは鳴海城城主の山口教継。両軍は赤塚の地で衝突するも勝負はつかず。

次に清州城の守護代坂井大膳が信長打倒の動きを見せ、信長は清州を攻撃。叔父の信光を味方につけた。萱津で激突。信長の勝利に終わり、信長が父親の信秀譲りに戦闘力を持った男であることと尾張国内に示すことができた。

清州はこれで終わらず、守護代織田彦五郎と坂井大膳が共謀して守護斯波義統を殺害、その子義銀が信長の下に身を寄せた。守護の維持を保護した信長は、清州攻撃の大義名分を手に入れた。坂井大膳は信長の叔父信光に働きかけ、仲間に引き入れようとした。その裏をかき、信光と信長は清州則り成功の暁には下四郡を庄内川を境に信光・信長で二郡に分ける約束をした。

信光が清州城に入り、結果坂井大膳は出奔。織田彦五郎も切腹。信長は清州城を手に入れた。しかしこの半年後に信光は家臣の坂井孫八郎に暗殺され、信長と信光の約束は露に消えた。

これが信長の計画通りだったとしたら、信長はもの凄い謀略家だったということと言えよう。

[教訓]

〇誰かは本質を見抜いている。だから今は注目されなくても絶え間ぬ努力をせよ。

〇見た目は問題ではない、外見より中身。肩書や素行よりも実績だ。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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