「偏見を持つな。相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受けるわい。」
(解説)
歴史小説家、吉川英治氏の座右の銘が「人皆わが師」である。「自分以外の人は物でも何でも、自分に何かを教えてくれる先生だ」という意味である。ここに身分なんてものは存在しない。
悪人からだって、反面教師として学べる。問題は受け身ではダメで、その人の発する言葉から、情報の受け手としての自分が、どこまでその情報から、得るものを見つけられるかということではないだろうか。情報の発信者の偉い、偉くないで、これは意味がある、意味がないと決めつけてしまうのは、情報受信者の能力のなさの所以である。それ故、情報発信者が有名人だと何でもいい言葉に感じてしまったりする。確かにいいこと言っていることは多いのだけれど。子供の思わぬ一言に気づかされることだってある。
子供のうちは感受性も高く、あらゆる者から情報を得ようとする。極端な話、道端の昆虫から学べることもある。子供のうちは色々なことを学んで吸収していくのだが、大人になるにしたがって、学ぶ心を忘れていくかのようだ。教科書、参考書、試験問題からしか学ばないように教育されていってしまう。
仏教において、人生修行の道は生きているうちに仏様と同じ心に至ることとしている。無住禅師の言葉に「人をそしりては、我が身の失を かえりみる、これ人を鏡とする心なり」という言葉がある。これは人の過ちは目につきやすいが、その過ちを非難するときでも、自分も同じような過ちを犯していないかを反省すべきという戒めなのである。
自分の事を棚に上げてという人は少なくない。人の過ちには良く気づくが、自分の過ちは中々気づかない。それ故、自分の過ちに気づいたときは、よほど大きな失敗があったときということになる。常に謙虚に反省し、向上していかなければならない。
ちなみにホームレスには、人生に達観した人もおられる。お前も人の偉い、偉くないで見ているではないかと思われてしまうかもしれないが、ホームレスになる前は弁護士でしたとか医者でしたと言う人に会ったこともある。こんな立派な仕事をしている人たちでも、嫌になっちゃったんだろうなあと思う。本当に純粋な人たちだった。
[教訓]
〇誰からも何物からも、自分に学ぶ気があれば学ぶことがある。
〇偉い人からしか学べないというのは、むしろ情報の受け手のレベルが低いことを意味している。