ある人は言う。「天道には私親がなく、常に善人に与する」と。してみれば、伯夷・叔斉のごときは、果たして善人であったのだろうか。仁徳を積み行状を潔くすること、このようにして、しかも餓死したのである。孔門七十子の徒のうち、仲尼は、一人顔淵を学を好むものとして推奨した。しかるに回は、しばしば飯米に窮し、糟糠にさえ飽くことができずに若死にした。天が善人に報いるというのは、一体本当なのだろうか。盗跖は日々に罪なき者を殺し、人の胆を膾として食い、暴戻恣睢、数千人の徒党を集めて天下を横行したのに、ついに何の天罰もなく天寿を全うした。これはいったいいかなる徳によったのだろうか。
(解説)
世の中には不公平がまかり通っている。努力に応じて報われる世の中はとうに終わってしまっている。起業家はまずここに気づくところから始まる。
起業しても、才能があっても必ず報われるとは限らない。ましてや時間をかけたからいいというものでもない。時間をかけたからと言って、少しは報われるとしたら、会社の従業員位だ。必ず残業代が付くとは限らないが。
通常のビジネスであれば、それほど才能がなくても、普通に稼げるレベルにはなる。つまり市場平均というイメージである。そうは言っても、会社勤めをしていた時より稼げるレベルになるためには、その会社勤めの時に不合理を見つけ、それを改善することができるとの確信に至ったときであろう。単に、その会社に行きたくなくて、自分で同じことをやろうとしても、上手くはいかないと思った方がいい。要するに後はやる気の問題だ。
悲しいかな、世間的には少し悪の方が稼げるイメージがある。結構長続きするパターンと長続きしないパターンがある。長続きする場合は、かなりアウトローで、誰も競合相手が参入してこない場合。普通の人は違法なことはしないし、そもそも法律すれすれの事をしようと思わない。だから誰も参入してこないため、価格競争にならない。
長続きしない場合には、誰かに恨まれるようなことをすると表面化する。世の中の経済犯罪の多くは、誰かのチクりから始まるのだから。それ故、違法すれすれの事をやっている場合にはむしろ、人から恨まれない、あるいは妬まれない仕事の仕方をしなければならない。
[教訓]
〇ビジネスをする上では、世の中は努力をしたものが報われるという考え方をまず捨てた方がいい。
〇違法ギリギリなことをやるのであれば、決して人から恨まれないこと、妬まれないこと。