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信念は捨てるな、プライドは捨てよ

呉王闔閭が伍子胥や伯嚭と共に楚を討ち、首都郢に入場しようとすると、将軍孫武(孫子)が「人民は疲れております。まだその時期ではございません。お待ちなさいませ」と言った。

九年、呉王闔閭は伍子胥と孫武に行った。「以前そなたの言葉として、郢にはまだ入る時期ではないとのことであったが、今ならどうだろう。」二人が答えて言った。「楚の将軍子常は貪欲で、唐や蔡の国が皆怨んでおります。わが君が大いに楚を伐とうとの思召しなら、必ず唐・蔡を味方につけられますように。そのうえなら。宜しゅうございましょう。」闔閭はその言葉にしたが、全兵力を上げて唐と蔡と共に西進し、楚を伐とうと漢水に到着した。

越王句践は、呉の太宰嚭にすがって和睦を求めさせ、呉王はこれを許そうとすると、伍子胥は諫めて言った。「・・・今、この勝ちによって越を滅ぼさないばかりか、越を許そうとなさいますが、これはまたなんとしたことでしょう。句践という人物はよく辛苦に耐える人柄です。今滅ぼしておかなければ、将来必ず後悔いたしましょう。」呉王夫差は越王と和睦した。

七年呉王夫差は出兵して北の方斉を伐とうとした。伍子胥は諫めて言った。「越王句践は、粗食を口にし粗服をまといつつ、部下の死んだ者を弔い、病人を見舞っています。これはいずれその衆を使役しようと考えているのです。・・・王は先手を打たぬばかりか、斉のことに気を取られておられます。なんとお考えちがいではありますまいか。」呉王夫差は聞き入れず。斉を伐ち、その軍を艾陵に破った。

越王句践は呉に入朝し、手厚い貢物を献上した。呉王夫差は喜んだが、伍子胥は諫めた。「越は我が方にとって腹心の病にも等しい存在です。今やわが君は斉で志を得ておられますが、それは耕すことのできない石田を手に入れたようなものです。・・・」呉王夫差は聞き入れないで、伍子胥は子を斉の大夫鮑氏に委託した。呉王夫差はこれを聞いて怒り、伍子胥を自害させた。

二十一年、越王句践は呉の都を包囲した。二十三年越は呉を打ち破った。呉王夫差は「わしは伍子胥の言葉を用いることができず、自分からこの災いに陥ったことが悔しい」とて、ついに自ら首をはねて死んだ。

(解説)
呉王闔閭の時代、孫武(孫子)が仕えていた。闔閭は将軍であり部下のアドバイスを聞いて従った。おそらく孫子の言うことだったからというのもあるのかもしれない。伍子胥の言うことは全て聞いていたわけではなかった。

これに対して、闔閭の息子である夫差は当初は父親の仇を取るという一心で、復讐心を維持していたのだが、越王句践が命乞いをしてきたので、許してしまう。むしろ宰相の伯嚭が越から賄賂をもらっており、策略に乗せられていた。実は闔閭(父親)は王位継承のときに「夫差は暗愚なうえに人情に薄く人の上に立てるような人間ではない」として危惧していたという。

その後、夫差はそのときの気分やら高揚感で、部下のアドバイスを聞かずに突っ走ってしまったように思える。そうして最終的には越に滅ぼされてしまう。

リーダーたるやまずは部下の意見を素直に聞く、そして信念を貫くことが重要と言える。夫差の信念は父親の仇を取ることだったはずだが、簡単に信念を捨ててしまっている。

逆に越王句践は、ときにはプライドを捨て、敵の軍門に降り、辛苦に耐え、ひたすら機会を待った。それが勝利につながった。

[教訓]
〇リーダーは部下の意見を素直に聞け。
〇信念は貫け。
〇時にはプライドさえ捨てよ。生きていれば必ず逆転できる。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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