「聞けば君は、この度合従のため、楚に向われるということで人選をされ、今一人欠員があるとのことですが、どうか遂を員数に加えていただきたい。」
「先生はわしの門下に来て何年になりますか。」
「三年になります。」
そこで平原君は言った。
「そもそも賢士たるものは、世にあっては例えば嚢の中に錐があるように、その尖端はたちどころに現れるものである。今、先生はわしの門下に来て三年になられるが、左右のものは、かつて先生を称賛したことがなく、わしもかつて評判を聞いたことがない。これは先生に、身に備わった能がないからである。先生の動向はなりませぬ。お留まりなされ。」
「私は、今日只今、嚢中に居ることをお願いするのです。私を早くから嚢中におらせたなら頴脱して突き出してしまい、尖端だけが現れるどころではなかったでしょう。」
平原君は、楚と合従しようとして、楚王に利害を説いた。日の出頃から説き始め、日中に至っても決着しなかった。毛遂は、剣の柄に手をかけながら進んで言うよう・・・毛遂は「それでは合従と決まりましたか」と問うと、楚王は「決まった」と言った。こうして、平原君は合従を定めて帰国し、「わしは今後もう人物の目利きをいたすまい・・・毛先生の三寸の舌は、百万の軍よりも強い。」
(解説)
平原君は、趙王の諸公子の一人である。「嚢中の錐」の原点である。毛遂のことを全く評価していなかったが、自薦してきて、まあいいかくらいな気持ちで楚との合従に参加させた。そして自ら全く楚王を説得できなかったが、毛遂が説得した。
嚢中の錐とは、すぐれた才能をもつ人は、凡人の中に混じっていても、自然とその才能が目立ってくるということ。ただ、優れた才能の持ち主が必ず、ほおっておいても世に現れるかと言うとそんなことはない。ただでさえ、尖らないように一生懸命育て、社会に出たら出たでその尖端を丸くしようと強制力を働かせるのが日本と言う社会だ。
正直この中で、どんなに才能があろうと、その才能を開花させるのは運が絶対的に必要である。運がなければ、どんな才能があっても凡才とみなされて終わる。普通の人は生活をしていかなければならない。そしてどこかで夢とは折り合いを付けなければ生きていけない。その中で、自分の才能を開花させるなど、至難の業と言える。
また、経営者は優れた才能の持ち主を自らの会社と言う嚢の中に入れてしまうと、嚢が尽き破れてしまう事だってある。誰だって、自分で丁寧に編んだ嚢は破られたくもない。天才級の人物が、その嚢を破らないように力を抑えられると思わない。
だからよほど余裕のある、そして強靭な嚢に入れておかないと、天才は開花しない。そのような嚢を用意できるか、現在は残念ながらそんな許容力のある社会ではない。しかし中には、その天才を開花させられる組織はあるだろう。そして、そのような天才を育てる組織を作る経営者でありたいものだ。自らは天才ではなかったとしても、許容力のある経営者であれば、天才を育てられる。
また、自薦を許す組織にしよう。それだけでも天才が現れる可能性が高まる。まず、経営者の人物に関する思い込みは捨て去ろう。
天才を育てるためには、メンターが不可欠である。そのメンターが強烈な天才である必要はない。しかしメンターはある程度社会的に成功して人だから、その天才を引き上げてあげる必要がある。引き上げなければ天才は育たない。勝手には生まれないのだ。だから、我天才と思っている(ほとんどが勘違い野郎だが)場合は、自分を引き上げてくれる人をいかに探すかが問題になる。天才が世に出るためには、自分を引き上げてくれるメンターに出会わなければならない。メンターに出会う努力が必要だし、そのメンターに合えるという事は運がいい。スポーツ選手でいう所の、コーチとか監督のことである。
[教訓]
〇天才を育てられるような許容力のある経営者を目指せ。
〇自薦を許す組織にせよ。
〇経営者は自分の尺度で人を評価しすぎるな。自分の尺度を超える天才の才能はかえって見落とす。それは自分の能力を超える人の能力は判断が出来ないからだ。