文帝は廉頗・李牧の人柄を聞くと、喜んで股を叩いて言った。
「ああ、わしだけどうして廉頗や李牧のような了承を得られないのだろうが。もしそんな人物を将軍にできたら、わしは匈奴のことなど心配しなくてよいのだが。」
「恐れながら、陛下には廉頗や李牧を得られても、良くお用いになれないでしょう。」
「その人を知らざれば、その友をみよ」
「偏せず党せず、王道は蕩々たり。党せず偏せず、王道は便々たり」
(解説)
第一段目は、馮公が文帝に言った言葉である。しかし正直に言ってしまうものだ。それでも何のお咎めもなかったから、相当信頼されていたのだろう。ちなみに馮公の祖父は趙にいたころ、隊長として李牧と親しくしていたらしい。また、第二段目と第三段目はどちらも張李、馮公について、司馬遷が語っていたことである。
さて、文帝が廉頗や李牧の様な人材を得られない理由として、馮公は、部下を信じて、全て任せきれないところや、褒章が軽く、処罰が重いことを上げている。実際には、文帝は第五代皇帝であり、比較的に社会は安定していて、匈奴以外の強敵がそれほどいなかったためであろう。廉頗や李牧の時代には、秦という強敵がおり、戦国時代真っただ中であったため、非常に優秀な人材が現れた時代でもあったと言える。平和な時代にはそれほど際立って優秀な人材には恵まれないものだ。
第二段目の「その人を知りたければ、友を見ればいい」とはよく聞く話だ。その人と話しているだけでは、短期間ではその人の本質は見えてこないこともあるが、どのような人間と付き合っているかをみれば、すぐにわかる。だいたい朱に交われば赤くなったり、あるいは類は友を呼ぶものだ。だからその友と似たような人間であることがある。これから、付き合う人間も選んで付き合わなければならないことに、気を付ける必要がある。少なからず、自分の人格が疑われるような人材とは避けた方が良い。
第三段目は、王道とは偏らず、たむろわず、広く、そして公平であるという。経営者は偏った見方をしてはならないし、類友のように似たような人間で固まってもいけないし、ましてや社内に派閥なんて作ってはならない。あったら壊せ。そして広範囲な見方をするべきだ。つまり木を見て森を見ずなんてことはいけない。さらに、公平な見方を要求される。特定の人物をかわいがりすぎて依怙贔屓してはならないのである。
[教訓]
〇人を見る時はどのような人物と付き合っているかを見てみよ。本質がわかる。
〇経営者は偏った見方をするな。徒党を組むな。公平であれ。