よく将たる者は、その剛折るべからず、その柔巻くべからず、故に弱をもって彊を制し、十をもって剛を制す。純柔純弱は、その勢必ず削らる。純剛純彊は、その勢必ず亡ぶ。柔ならず剛ならざるは道に合するの常なり。
(現代語訳)
優れた将軍は、剛と柔を兼ね備えている。それ故、不敗の境地に達することができ、弱をもって強に勝ち、柔をもって剛を制することができるのである。柔弱だけでは必ず敗れるし、剛強一点張りでも必ず滅びる。柔ならず剛ならず、これが理想的な在り方である。
(解説)
柔よく剛を制す、小よく大を制す、というとそもそも社会には弱者の方が多いし小さい方が多いので、勇気づける言葉としては最高である。この点、老子にはそのような趣旨の事が書いてある。
「およそ何が柔らかい、弱いと言っても、水ほど柔らなく弱いものはない。そのくせ固く強いものに内かること、水に勝る者はない。これは水が弱さに徹底しているからだ。弱は強に勝ち、柔は剛を制する。この道理は誰でも知っているが、実行できる者はいない(老子)」とある。
次に『三略』では、「柔とは他者を包み育む徳に他ならず、剛とは他者を傷つけ損なう悪に他ならない。弱者は誰からも擁護されるが、強者は誰からも狙われる。とはいえ、ただ柔のみを後生大事に守り、ただ弱の身を金科玉上としているのでは何の意味もない。柔と剛、弱と強の四者を兼備した上で時機に応じ硬軟自在に対処することこそ肝要である(三略)」の方が合理的であると思われ、諸葛亮の考え方もこちらによるようだ。そもそも蜀は魏と比較して国力が乏しく、小が大を制したい気持ちはあったのだろうが。
柔と剛というと、それだけ多くの攻め手を持っていることになる。格闘技なのか男女の間柄なのか、押してダメなら引いてみろというのがあるが、まさに攻め手だ。野球の投手でもストレート一本やり(剛)では打たれる。そこに変化球(弱)を織り交ぜれば抑える確率が高まる。会社組織においては、社会の変遷に伴い、一つの商品では心もとない。複数の商品があればいいというのではなくて、色々なやり方で攻めてみろということなのだ。
[教訓]
〇柔よく剛を制す、の本来の意味は、柔も剛も持てということ。
〇強弱をつけた方が、インパクトが強まる。