釈之が言った。「絳候や東陽候を(文帝は)長者と仰せられたが、この両人は口不調法で、いつも簡単な事さえうまく言い表せませぬ。この下役人の喋々と口達者はですばしこいのを、どうして見習えましょう。秦は政治を刀筆の吏(小役人)に任せたので、彼らは功を競り、苛酷を誇り合いました。しかるにその弊害は、ただ空文末節を具えるだけで、民を憐れむ誠に欠けていました。そのため、天子は自らの過ちを聞かされることもなく、衰微して二世皇帝に至り、土が崩れ落ちるように天下が壊滅したのです。今陛下には、口功者のゆえに、下役人に異例の昇進をさせようとされますが、そうなれば、天下はそうした風潮になびいて、ただ口達者を競い、誠の実がなくなりましょう。下々が上の感化を受けるのは、影の形に従い響きの声に応ずるよりも速いのです。人を選ぶには、十分審議しなければならないと存じます。」
(解説)
張釈之が文帝に、絳候や東陽候のことを口先だけの下役人と言ったわけだが、そういう口だけ野郎や、おべっか使い野郎の方が、出世することが多いのは、組織あるあるである。
空文末節とは、空文が「現実とかけはなれてしまっていて、実際の役に立たない文章」のことであり、末節が「物事の本質的でない部分」ということであり、要するに意味がないことや本質的でないことをずらずら言っているだけにすぎないということだ。
ある人物と議論していて、何となく言い負かされている気がするのだが、そうは言っても物事は何も解決していないという事はよくある。実は言い負かされているのは、口達者でないからではあるが、こちらは具体的なことを提示し、具体的であるからゆえに、どうしてもツッコミどころ満載になることが多い。単に批判するだけならば、相手に対した知識がなくてもできる。逆に言い負かせようにも、こちらのことを批判するだけだから、相手に何の批判をする具体例がないために、批判できないだけなのだ。
要するに詭弁が上手い奴という事である。言い負かされるような口下手なのかもしれないが、どちらが最終的に支持されるかと言えば、具体的な方策を提示し、それによって得られる成果がより多くの人にとってメリットがあることを言った方である。それは中長期的にはと言う注釈付きであり、何も知らない一般人は、何となく差しさわりが良い、実のないことに賛同しがちである。
少なからず経営者は実のあることで、従業員をリードしていかなければならないし、見のない事しか言わない詭弁人は役職に就けてはならない。言葉よりも具体的に実行し、成果を出してきた人材のみを評価しなければならない。
[教訓]
〇経営者は口に騙されてはならない。
〇言葉よりも実行し、成果を出してきた部下だけを評価せよ。
〇耳障りのいいことだけを言って具体性のない提案は却下せよ。