聖書に以下の事を学ぶ。
「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか、母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆我々と一緒に住んでいるではないか。この人たちはこんなことをすべていったいどこから得たのだろう。」
「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである。」
預言者は古今東西必ず迫害に会う。預言者は既存の社会に批判を唱えるわけだから、今の世の中の安定に満足している人や、既得権者からは大いに嫌われる。しかも世の中の秩序を乱す厄介者のような扱われ方をされる。
内部からの改革は非常に難しい。日本も変わらざるを得ないときには、アメリカの外圧があると簡単に変わったりする。何か制度を作るときにも、諸外国ではこうだからというのが通りやすい。日本には独自の考え方があってもいいと思うのだが、グローバルスタンダードのような旗印があれば、すぐに迎合する。もはやプロ野球も、ワールドベースボールクラシックが定期開催されるようになり、まだまだ本大会は、本当の意味での世界一決定戦にはなりえないが(最強のアメリカが一番やる気がない)、日本の野球ルールも、それに合わせて、アメリカのメジャーリーグベースボールのルールを踏襲していくように変わっていく。
こんな状況であるから、イエスの奇跡も、地元では起こりようがない。町の人からすれば、イエスはマリアから生まれた、単なる町にいた坊主でしかないからだ。
日本の伝統的な企業も、段々変わらざるを得なくなってきている。終身雇用の撤廃などは外部の環境変化が引き起こしたものであろう。サービス残業もそう簡単にはなくならないと思うが、政府が動き出して、「働き方改革」によって、ようやく変わるようになってきた。
以前勤めていた会社では、政府の改革の前に、毎年やめる人が続出しており、採用費もバカにならないということで、動き出した。残った内部者の力というよりは、やむなく退職していった人たちの外圧が、なした業だ。その退職者の一人が自分であったのだが。とにかく会社に何らかの損害を与えなければ、会社は変わろうとはしない。もちろん故意に個人が損害を与えたら、それは損害賠償の対象だが、あくまでも不作為の損害を与えるということになるだろう。
その他、社内改革をしようとするときに、外圧として外部のコンサルタントに依頼することがある。外部のコンサルタントがこういっている、という表現を使えば、社内の〇〇がこういっているというよりも、共感を得られやすい。社内の〇〇が言っていたとなると、お前が楽をしたい、あるいは得をしたいだけだろうと、思われてしまうし、そもそも制度を変えたくないものだから、内部者の意見は封殺される。社長の旗印で改革を行うこともあるが、大抵は、抵抗勢力の妨害にあってしまう。だからこその外部者で、コンサルタントに大いに嫌われ者になってもらおうというわけだ。
[教訓]
〇内部改革は難しい。そのときには外部の力をうまく利用せよ。外部者に嫌われ者になってもらえ。