聖書に以下の事を学ぶ。
「・・・ファリサイ派の人々は「なぜあなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事とするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。・・・私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」
イエスは、信者を限定した。それは罪人と設定した。普通の人も信者になっていただろうが、この限定にものすごく意味がある。
ビジネスにおいて、誰でもOKですよ、と広告宣伝をしたとしても、誰もやってこない。そこで30代の女性限定、肩こり首こりにお困りの方、とでも広告文に書けば、「それってあたしのこと」となる。つまり広告は自分ゴト化していなくてはならないのだ。
今、情報は溢れかえっている。昔は一定のメディアのみが情報発信者であったが、今では一個人が簡単に情報発信者となれる時代だ。だからこそ、一人のユーザーが1日に触れられる情報には限界があり、ユーザーは流れてくる情報を無意識のうちに受け流している。
以前のように情報をオンエアして、情報に接しさえしていれば、モノが売れる時代ではない。SNSでバズっても、売上にはそれほど影響がないこともある。メーカーや販売者がいくら、自社製品を情報で流そうとしても、一般消費者は見向きもしない。商品のコンセプトやら、その商品の細かいスペックなんてどうでもいい話である。一般消費者にとっては、その商品やサービスが自分と何か関係があるかどうかだ。そして、使っているシーンを頭の中で想像してもらって、さらにこりゃいいわとそのサービスを受けた後の、ベネフィットを感じさせられることができるかにかかっている。
SNSを積極的に活用する一般消費者にとって、気になった商品を深堀して情報収集するのは当然のこと。情報収集する前の気にさせるのが、自分ゴト化と言える。
自分ゴト化に必要なものは、SNSにおいてはタグだったり、一般消費者に対する共感であったりする。
まずイエスのマーケティングは、罪人と限定したことで、自分でも救われるのかと思わせることができる。罪人は噂を聞いてやってくる。罪人ですらも救われるのなら、普通の人である自分なら、当然救われると思えることだろう。さらにそれを医者に必要なのは丈夫な人でなく病人であるという例えを用いている。例えられるとさらにイメージが湧く。こう考えてみると、イエスはかなり優秀なマーケターだったと言えるのではないだろうか。
[教訓]
〇マーケティングに、消費者の自分ゴト化は必須。
〇ターゲットの明確化にもつながる。お客も自社のサービスを選んでくれやすい。