聖書に以下の事を学ぶ。
「心の貧しい人々は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
・・・
義のために迫害される人々は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
私のために罵られ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなた方は幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
新しいことをやろうとすると、既得権益を崩すことになるし、時の権力者から喜ばれない。本来ならば新しいことが常に生じて、新陳代謝を起こさないと、社会は疲弊する。人間の体を見ればわかる通り、新陳代謝は生きる上で不可欠の作用だ。それが起きなければ、おそらく人間は死んでしまうだろう。自然の摂理に反しているから、社会自体に歪みが生じてくる。
以上のような社会全体の大きな話ではなくて、新しいことに対する世の中の目は厳しい。企業で新規事業を仕掛けようと思っても、各方面から反対される。仕事を増やすな、だとか、そもそもそんなことやってもうまくはいかないから、今の仕事をコツコツやれ、と一蹴されてしまう。
だからと言って、企業から離れて、自ら起業することで、新しいビジネスモデルで投資や融資を受けようと思っても、拒絶反応を起こされることもしばしばだ。最も、拒絶反応を起こしたくなるような、ビジネスプランがほとんどなこともまた事実である。
社会にとって有用なものでも、中々新しいサービスには顧客は変えてくれない。人間は今までと同じことを繰り返し続けているのが心地よい動物なのだ。たとえそれが、中長期的に見て損をすることがわかっていても。
だから自分の信念を決して曲げず、粘ること、その根拠はお天道様が見て下さっている、と思い込むしかない。上記の義とは「信念」と言い換えることができる。信念も独りよがりではなく、あくまでも社会的に「良い」「正しい」ものでなければならない。「義人」とは、わが身の利害を顧みずに他人に貯めに尽くす人を言う。従い、自分の利益よりも他人の利益になるのであれば、いつかは理解してもらえる、という信念だ。
さすがに迫害されてまでも、ビジネスをやりきる必要はないと思うが、あくまでも身近な人に、そんなことやっても意味はないと言われたら、何で意味がないのかと食い下がってみよう。理屈があれば素直に従った方が良いこともある。大抵、新しいことをやられたら困る人が、大した根拠もなしにダメだと言ってくるケースが多いと思う。
例えば、部下にやめられたら、新しく採用しなければならないし、面倒だから、残ってほしい、だから、そんな起業しても上手くいかない、と言ってくる。こんな場合には相手に義がないと思った方がいい。義があれば、必ず最後は勝つ。
[教訓]
〇自分の信念を持ち、ひたすら粘れ。お天道様がそのうち助けてくれると思い込め。
〇信念は、社会的に「良い」「正しい」ものである必要がある。人からのアドバイスを受けて、その信念に社会的な意義があるかを確認せよ。