「偉人だの英雄だのの伝記を、子供たちに教えるなんて、愚劣なことだ。善良な人間に、異常者を見習えというも同じだからね」
(解説)
ヤン・ウェンリーの言葉である。歴史的に尊敬する人物として取り上げられる偉人や英雄が、果たして本当に目指すべき人間であるかと言うと、歴史的功績については学ぶべき点があるが、その生活習慣までというと、本当の意味で見習うべき存在であるかと言うとはなはだ疑問でしかない。
現代に生きる天才も、私生活がまるで尊敬できない、と言う人も少なくない。しかし例え私生活では尊敬できなかったとしても、彼らの創り出す作品の質を低めるものでもない。
織田信長も尊敬の対象とされるが、彼の行った歴史上の事象については数多くの優れた功績を遺したといえるが、そもそもそんな尊敬の対象が、本能寺の変のような形で殺されるようなこと等あるだろうか。私生活ではよほど、人から恨みを買う対象だったと思うのが自然ではないだろうか。対外的に怨まれても仕方がなかろう、しかし通常の感覚として、身内から怨まれるのは、よほど性格が悪かったとしか言いようがない。それをして偉人だの英雄だのと子供たちが目指す対象として持ち上げるべきとはとても思えない。
ヤンの言う通り、「善良な人間に、異常者を見習え」と言うのと同じだからだ。
昔から立派な対象とされているとすれば、野口英世もそうだろう。彼は、子どものうちに手にやけどをして、指が動かせず、手術を受けてそれに感動し医者を志した。貧しい家の生まれでありながら努力をして偉くなったという点は素晴らしい。実績としては黄熱病の病原菌を発見してノーベル賞候補になった。しかし実態は黄熱病はウィルスによるもので、その発見は幻であった。まあ、その点に関しては、問題ではない。むしろ、婚約を餌に渡航費用を女性の家族から借り受け、その後返済が惜しくて、アメリカに逃げたままだったとも聞く。それで本人はアメリカ人とちゃっかり結婚している。
努力家であり、日本の細菌学の発展にも貢献した人物ではあるが、子供たちが目指すべき偉人かと言うとかなり異なると思われる。あまり、偉人や伝記を子供たちに教える材料とすべきではない。そもそも歴史小説によって、なんちゃって偉人になってしまった、創作偉人でしかない。空想に人間に憧れを抱く。ああ、この小説を参考にして経営の法則を導き出しているのと実は何ら変わらないが、この小説は最初から作者の創作であるとみんな分かって読んでいるのだから、全く問題はないと思われる。
(教訓)
〇偉人や伝記のような創作を子供の道徳の教育に用いるべきではない。
〇創作偉人は所詮創作でしかない。むしろ現実の人間を創作で飾り立てている方が、事実を曲解させる罪でしかない。