皇帝に御見がかなったビッテンフェルトは、たくましい身長を縮めて、自分の罪を謝した。軍務省外の間に隙を生じ、帝国内部に不和があると見られた点について、自分の罪を詫びたのであった。だが、それだけではすまず、ビッテンフェルトは敵意に満ちた視線を軍務尚書に向け、その非をならした。帝国軍の諸将がヤン・ウェンリーに敗れたことを嘲弄した非礼を弾劾したのである。
「ビッテンフェルトが怒ることはない。予自身も、ヤン・ウェンリーに対して戦術上の勝利を収めることがついに叶わなかったのだからな。予は残念には思うが、恥じてはおらぬ。ビッテンフェルトは恥じているのか?」
(解説)
ビッテンフェルトはラインハルトを心から尊敬しているため、自らが起こした事件について、心から謝罪した。ただ、相手もこんな悪いことをしたと伝えた。ラインハルトは、自らもヤン・ウェンリーには戦術上の勝利ができずに終わったことも事実だとビッテンフェルトに伝え、諭した。
ビッテンフェルトの怒りの本当の原因は、オーベルシュタインが、帝国軍の諸将に対して、ヤン・ウェンリーに敗れたことをバカにしたことではなく、ヤン・ウェンリーに敗北したことを自らが恥じているからであると看破した。
勝利とは相対的な関係によって決まる。シンプルに言えば、相手がより優れていれば、こちらがどんなに優れていたとしても負ける。その勝敗で、負けたからと言って、恥じる必要は全くない。
人は全てことを相対的に考えない。絶対的に考えようとする。そして、その絶対的評価で物事を見るのだ。学歴や職歴についても言える。そのときに競争相手が多ければ、それだけより上位の学歴を得ることは難しくなる。それをすべての年代で、同学歴とみなすから問題なのだ。競争相手が少ないときに得られた学歴と、競争相手が多い時に得られた学歴は、本来その重みは異なるはずだ。
また、職歴についても、氷河期世代で入社できなかった人、売り手市場で入社できた人とそれぞれいるのはやむを得ない。それを全て努力論でかたづけようというのが所詮間違っている。正直、努力でどうにもならないことの方が多い。努力ですべて報われるというのは幻想である。
だから、思い通りにいかなかった人は、残念に思っても、決して恥じる必要はない。逆に、それを言い訳にしてもいけない。思い通りにならなくても、その激しい競争で得られたこと、挫折は人生に大いにプラスになっている。だから、別の方法で勝て。
(教訓)
〇思い通りにいかなかったとしても恥じることはない。残念に思うぐらいでいい。
〇思い通りの成果が出なくても、そこで得られたことは間違いなく人生にプラスになっている。