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万人に好かれようと思うと何もかもうまくいかなくなる

「ですが、本当にブルース・アッシュビー提督が謀殺されたと、そう信じておいでなのですか、少佐殿は」
「半信半疑だね・・・状況証拠は集まるかもしれないけど、同じ数だけ反証も集まる。どっちつかずさ」
ヤンは思うのだが、ブルース・アッシュビーが神聖な人格者ではなかったからといって、彼の才幹と業績を否定することはできない。そもそも、若くして世に功業を成す人物画、円満な人間でいられるはずもなかろう。「ダゴンの英雄」リン・パオ元帥とユースフ・トバウロフ元帥も、温和な君子人ではなかった。
「しかし、何ですな、世の中には性格が悪いだけで何の能もないという人間が多いんですから、その一方が傑出しているだけで、立派なものだともいえますなあ」
パトリチェフは嘆息した。一般論としては全くその通りだが、ヤンとしては、アッシュビーが性格が悪かったと決めつけるのも気の毒なような気がする。どんな人格者だって、万人に好かれるというわけにはいかぬのである。

(解説)
偏見かもしれないが、人格者がリーダーになったことを見たことがない(リーダーが人格者であるということは稀にある)。歴史的にもどうだろう。歴史上の人物にあったわけではないが。そんなことよりも、性格に難がある者の方が、なぜかリーダーとして歴史上の名に残っている気がする。

世間的に言う成功者というものは、人格的な成功者とは異なる。そもそも尺度が異なる。アメリカのトランプ元大統領にはお会いしたことがないが、メディアから嫌われているから、非人格者としての報道が多くなされているというのも確かだが、想像するに、どう考えても非人格者であるような気がする。しかし成功者ではある。まあ、面白い人と言えば面白い。

サッカーでも、わが日本代表はフェアプレー賞を獲得する。しかし世界一に輝くようなチームでフェアプレー賞を獲得したチームはあるのだろうか。ビートたけしさんが「卑怯なスポーツ」とおっしゃられていたが、まさにその通りで、実際は卑怯な方が、勝者になる確率の高いスポーツであることは言うまでもない。

成功者は人格者たれ、というのが意識に根付いているのか、それを我々が勝手に期待しているだけなのか、尺度の異なるものを強引に絡めたりするところに問題が出てくる。サッカーでもぜひとも「卑怯で賞」を作ってもいいと思う。

それは半分冗談として、言えることは、性格がいいも悪いも、特に万人に好かれようとは思わなくていいという事だ。敵が多ければ多いほど、味方も多い。アンチがいるのが味方の多い証拠でもあるのだ。アンチがいる所には必ず冠たる実績もあるもの。ことさらヒール役になることもないが、自分らしく生き、その結果、敵が多いのならば享受するしかない。それが成功への第一歩になりうる。中途半端で成功した試しはない。自分を持てば摩擦も起きる。摩擦が起きるという事は確固たる自分があるという証拠なのだ。

(教訓)
〇成功者と人格者というものを同じ尺度で見るな。実際は違うものである。
〇アンチがいるところに冠たる実績がある。無理に敵を作るべきではないが、自然にできた敵はやむを得ない。成功の一歩だと思え。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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