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自由を求めるという意味とは

「ケーフェンヒラー大佐には、ヤン少佐及びパトリチェフ大尉の危機を救っていただいた。さらには、惑星エコニアの収容所において行われていた不正を暴くのに、少なからず貢献していただいた。大佐に対する感謝の意を表し、大佐の釈放をここに決定する。以上のことをお知らせします。」
「わしは別に帝国本土に帰りたくなどない・・・誰が収容所から解放してくれと頼んだ。・・・」
「帰国せねばならぬ義務はありません。大佐殿は自由の身ですからな」
「自由か・・・」
その単語を発生するとき、ケーフェンヒラー大佐の声に賞賛の響きはない。・・・
「自由とは自由の欲求を果たすものではないのかね。欲してもいない自由を、何だって他人から押し付けられなくてはならんのだ・・・第一、わしは手に職があるわけじゃない。路頭に放り出されても、食っては行けん。収容所にいれば、食べる心配をせずに済む。」

(解説)
ケーフェンヒラーは同盟に対する功績を認められ、捕虜から自由となったが、中々に考えさせられる問いである。

我々の大半が、どこかの組織に属することで生計を立てている。職務時間は会社によって異なるが、午前9時に出社し、昼に1時間休憩し、午後6時に退社する。これを平日は毎日繰り返す。ほとんど収容所暮らしと変わらない。会社によっては収容所の方が楽じゃないかというところばかりである、というか収容所の方を知らないのだが。

自由とは自由の欲求を果たすためのもの。欲していない自由を他人から押し付けられたくない。それは、退職を余儀なくされた者の心の叫びである。そもそも我々は、お金を稼がないことには食べていけないのである。つまり自由を求めて組織から追い出されると、組織の外にはまるで自由がないのだ。コロナショックによって、望まぬ退職は増えざるを得ない。会社の財源は有限である。稼ぎのないところで、給料など払えないのは当たり前の話である。解雇するなではなく、せっかく得られた自由を生かす行動こそが我々に求められていると言えよう。

ケーフェンヒラーの言葉から言えば、手に職があれば、食べていけるわけだ。ここでいう手に職というのはもっと幅広い意味であって、自分で顧客相手に直接食べていける仕事を持つという事だ。雇われなくて済む人間になることが、本当に自由を手に入れることである。

(教訓)
〇自由とは、自分の欲求を果たすためのものだ。欲求が果たせることが本当の自由だとすれば、行動の自由が制限される組織に身を置かざるを得ないことも、自分の自由を得る一つの手段だと言える。
〇雇われなくて済む人間にならなければ、真に自由を手にしたとは言えない。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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