何かを成そうとするときは、思考停止が必要だった。多くは人が「信念」と呼ぶものである。自分は正しく、反対する者は悪だと思い込まねばならないとすれば、ヤンには大事業等できそうになかった。
後世の歴史家にも、信念は全てを免罪すると考える人々がおり、彼らはヤン・ウェンリーがしばしば信念というものを侮辱する発言をしたことに対し、批判ないし批判を浴びせている。彼らが問題にするのは、次のようなヤンの文言である。
「信念とは、あやまりや愚行を正当化するための化粧であるにすぎない。化粧が厚いほど、その下の顔はみにくい」
「信念のために人を殺すのは、金銭のために人を殺すより下等なことである。なぜなら、金銭は万人に共通の価値を有するが、信念の価値は当人にしか通用しないからである」
(解説)
経営の教科書に、成功者の条件として「信念」を上げている。決して間違っているとは思わないのだが、その信念が頓珍漢なものだったら、害悪にしかならないと思う。
信念は、自分の考えることが正しく、それ以外の事は間違っているという考え方である。正しいことをしているのだから、やっていればいつかは報われると思っているのだろう。だから、どんな辛い結果になっていても、大抵、金にならずに色々な人に借金をして、関係者にお金を払わず、正しいことをやっているんだ、と自分に言い聞かせている。金を借りた人に対しても悪びれることなく、正しいことをやっているが、それを理解しない奴が悪いといわんがばかりの態度である。
よくある信念と言うのが、自分の作った技術はものすごい。ノーベル賞級だ。だが、理解者がいない。理解してくれる人を永遠に求めて、出資してくれ人生。はっきり言ってそんな信念、邪魔だと思う。当人が幸せかどうかはしらんが、周りの人間がみんな不幸だ。嫁や子供可哀そうになる。大抵、家族が上手くいっていないけれども。
「信念とは、あやまりや愚行を正当化するための化粧であるにすぎない。化粧が厚いほど、その下の顔はみにくい」とヤンも言う如くである。所詮自己満にすぎないのが、「信念」の正体である。信念を持っているという奴のほとんどが、他人に迷惑をかけている。
(教訓)
〇信念は、所詮自己満にすぎない。
〇下らない信念なんぞ、捨ててしまえ。誤りや愚行を正当化する言い訳に過ぎない。