こういう評も。ヤンに対してある。
「所詮少佐どまりの男が、21歳で少佐になってしまったら、もう人生は終わりじゃないか。何の他の楽しみもないだろう」
出世を楽しみにしているわけではないから、これは余計なお世話というべきだった。もっとも、「少佐どまりの男」という評価は、ヤン自身頷くこととがある。そんなところだよな、と自分で思うのだ。提督という称号や、司令官という地位が、自分に似合うとは、とても思えない。但し現在の状況も、似合いもしないし想像もできないことではあるが。しかし、まあ、人間には相応の生き方があって、最終的はそこに落ち着くのではないか。
(解説)
人にはそれぞれ器というものがある。大企業の社長になっている人物は、それがふさわしいかどうかはさておき、器なのだ。でも不祥事で去らざるを得ない人がいる。一番かわいそうなのは、自分が社長でない時期の不祥事で、自らが引責辞任するのだが、それもまた器としかいようがない。
過去どのような生き方をしてきたか、どのような実績を上げたかは確かに重要なのだが、その人が死ぬ間際で初めて、その人の器がわかる。そんなこと言ったって、定年退職すれば、社長なんてやっていられるわけないだろうと思うかもしれないが、定年退職してしまって、単なる老人で過去の人、であれば、その人は「単なる老人で過去の人」という器なのだ。
プロ野球ですごい選手でした。その後、薬物をやって野球界に戻れずに終わった、というと、皆さんがそのすごい野球選手だったピーク時に目が行くのであろうが、薬物中毒になってしまう器なのだ。最もここでイメージしている元選手は、これからどのような人生を歩むかわからないから、まだそれが器かどうかはわからない。
高級官僚で、官僚時は立派だったのだろうが、母子を車でひき殺してしまった奴は、それも犯罪者という器なのだ。晩節を汚した人物は所詮その程度の輩だったというわけだ。
過去殺人を起こしてしまった人でも、教会の牧師をしている人だっている。それは「教会の牧師」という器なのだ。
死んだときというのは極論ではあるが、実績はその人の才能だけではなく、運や人生の流れのようなものもある。人生は結局トータルで決まるのだが、特に晩年、どういう人物であったかが大きい。死ぬまで仕事をし、実績を積み上げていかざるを得ない時代になってきた。どのような器かは、死ぬまでわからない。結局人は、求める限り、行くつくところに行きつくのである。途中どうかはあまり関係がない。
(教訓)
〇どんなに若いうちに実績を残しても、晩節を汚せば、それがその人の器である。
〇人は、求める限り、いくつくところに行きつく。途中ではわからない。