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部下を大きく育てる方法

織田信長に学ぶ、

北畠家の養子となっていた織田信長の次男織田信雄は、1576年に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた。忍者らを用いて総攻撃を開始、不意を突かれた滝川雄利軍や人夫衆は混乱し、伊勢国に敗走した。

1579年、信雄は信長に相談もせず独断で8,000の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた。伊賀衆の夜襲や松明を用いた撹乱作戦や地形を活かした奇襲などで、2~3日で信雄軍は多くの兵を失い 、伊勢へ敗走した。

この信雄の敗戦を受け、信長は忍者に対し警戒心を抱き、後の第二次伊賀の乱へ繋がっていく。しかし信長はこの頃石山本願寺との抗争が激化し、伊賀国平定は後回しせざるを得なかった。

1581年、再び織田信雄を総大将に5万の兵で伊賀国に侵攻した。

伊賀衆は比自山城に3,500人、平楽寺に1,500人で籠城した。伊賀衆は河原で野営していた蒲生氏郷隊に夜襲を掛け、氏郷隊は寝込みを襲われ敗れた。筒井順慶隊にも夜襲を掛け、1000兵を討ち取られた。これに怒った氏郷は平楽寺を攻撃し退けられるが、滝川一益の援軍を得て陥落させた。続く比自山城は、丹羽長秀らが幾度となく攻略しようとしたが、その都度敗退し、落とせなかった。しかし、総攻撃の前日に全ての城兵は柏原城に逃亡した。その後、内応者が出た事もあり、織田軍は各地で進撃しほぼ伊賀国を制圧した。

その後、城兵の人命保護を条件に和睦を行い、城を開けた。この柏原城が開城した時点をもって天正伊賀の乱は終わりを告げた。

(解説)

信雄は信長の側室の子で次男である。しかも北畠家の養子になったが、血のつながりはないが父親と兄弟を暗殺して、実権を握っている。妻は北畠具教の娘であるから、血も涙もない。実際は元々実権を握らせるつもりで敵陣に送り込んだ刺客と言うことだ。自分の息子を敵陣に一人で送り込むとはまさか思うまい。信用を勝ち取って、背中からグサッと言う奴だ。信用を勝ち取れば何でも手に入る。顧客の心ですらも。

信長は敗戦の原因を作った将、信雄をもう一度総大将とした。それだけ能力を買っていたのだろう。もう一度チャンスを与えるというのは、その人の能力次第ではあるものの、才能を伸ばすことになる。チャンスを二度と与えられないと思ったら実力は出せない。

[教訓]

〇信用を勝ち取る以上の営業はない。

〇部下にはチャンスは何度か与えろ。実力を出させるためにも。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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