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動かぬ部下に伝えるべきこととは

織田信長に学ぶ、

信長が佐久間重盛を懲戒する文書を書き上げ送付した。

「佐久間信盛・信栄父子、5年間天王寺に在城したが、その間格別の功績もなかった。」

「その意図を推察するに、大阪方を大敵と考え、武力を行使せず、調略活動もせず、ただ居陣の砦を堅固に構えて何年か過ごしていれば、やがて信長の意向に屈して撤退するだろうと予測していたのか。しかし武士の取るべき道はそうではない。・・・勝敗の機を定めて一気に合戦に持ち込めば、信長のため、ひいては佐久間父子のためにもなり、・・・誠に武士の取るべき道であった。ひたすら持久戦にのみ固執していたのは分別もなく、未練がましいことであった。」

「丹波は明智光秀が平定し、天下に面目を施した。羽柴秀吉は数か国で比類ない功績をあげた。」

「武力による作戦が進展しなければ、利益誘導等の調略活動をし、なお不十分なところがあれば信長に報告し、指図を受けて決着をつけるべきであった。しかるに5年間一度も具申のなかったことは職務怠慢であり、けしからぬことである。」

(解説)

当初は、信長は本願寺を力攻めする考え方はなく、天皇を動かして本願寺と和睦する動きを進めた。顕如は和睦賛成で、息子の教如と雑賀衆は、信長は約束を守らないと和睦に反対した。そのため教如は父の意向を無視して、籠城する。しかし教如もさらなる譲歩条件を信長から引き出し、教如は石山の地を退去する。だが、せめてもの腹いせか、本願寺は炎に包まれる。

信長は無残に焼け落ちた本願寺を見て、佐久間重盛と信栄が本願寺攻めの怠慢が原因として、佐久間父子を追放してしまう。

佐久間父子は兵糧攻めのつもりだったのだろうが、それは特に海路を立つという別部隊の功績があってこそである。佐久間父子は、ミドルマネジメントであったが、他力本願の姿勢を信長は叱責したのだと思われる。自らの功績は、自らの努力で勝ち得ろと。結果は運に左右されることはあるが、運や他者の功績に期待してはいけない。ましてや敵失に期待してもいけないということである。やれることをやっての結果であれば信長も怒らなかったであろう。ただ動かないということであれば、別に武士でなくてもできる。持って生まれた資質を活用して、最善を尽くせと言うことだ。

[教訓]

〇待つな、仕掛けろ。

〇持って生まれた才能を無駄にするな、最善を尽くせ。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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