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ビジネスにおけるコネクターの重要性

織田信長に学ぶ、

信長包囲網は武田信玄の急死によって崩壊した。そして1573年に将軍義昭は追放、朝倉・浅井氏も滅亡。三好義継は討たれ、松永久秀は降伏と財産没収。顕如は義昭と連絡を取り合い、反信長の姿勢を持ち続けた。この本願寺に呼応して、河内高屋城も反信長の動きを見せた。

第1次高屋城攻めでは、城将遊佐信教を討ち取る成果を上げたが、決定的な戦いには至らず、織田軍が撤兵した。

次に、1575年に本願寺包囲作戦に着手する。なお高屋城は武将たちに攻めさせておいた。信長は新堀城に火矢を放ち、草で堀を埋め、一気呵成に城に攻め入った。敵方の主だった将はすべて討たれ、新堀城は落ちた。織田軍は高屋城周辺を焼き討ちにし、麦苗も薙ぎ棄てた。高屋城の三好康永もこれまでと悟り、信長の側近であった松井友閑を仲介として、降参してきた。そして康永を信長は赦免し、彼に河内半国を委ねた。彼を優遇したのは、康永が本願寺と親しく、四国でも三好一族の長老という権威を持っていたからだと思われる。

なお、武田勝頼が三河に侵入し長篠に迫ったとの報が入ったため、信長は石山本願寺攻めを中止し、塙直政に高屋城を含む河内の破城を命令、自身は帰京し、長篠の戦いへと赴いた。

なお、本願寺は松井友閑と康長を仲介とし、信長に三軸の名画を送って和睦を申し入れた。12月に和睦が成立し、誓紙が取り交わされた。しかしこの和睦も一時のものにすぎず、翌年の1576年、信長と石山本願寺の間で天王寺の戦いが勃発する。

(解説)

三好康永を降伏させたのが、この戦いでの一番の成果であろう。本願寺と康永が親しいために、講和がしやすかった。

小さな企業にとっては、大企業との取引は一つの夢である。B2Bの企業であれば、そのときに大企業とのコネクションを持っている人の力添えを得られれば、非常に強い。もちろん契約が締結できるかはまた別の話だ。だが、話し合いのテーブルについてくれることはそれだけでも大きい。相手の会社のステータスにもよるが、門前払いされる可能性も少なくない。テーブルについてくれるまででも相当時間がかかる。但し、仲介者を恥かかせてはいけない。相当な準備を重ねておくこと。

B2Cの企業としてみれば、康永のような人材は、インフルエンサーになるだろう。お客とのハブになってくれる存在は心強い。但し、それを商売でやっている人に頼むとお金はかかる。そこで、それを商売でやってない人を巻き込むことができればなおよい。何となく情報発信をするのが、好きな人だ。そういう人に、自尊心を高めるような情報を用意したいものだ。

[教訓]

〇大企業とのコネクターを探せ。

〇インフルエンサーに協力を仰げ。

〇インフルエンサーが自主的に情報発信してくれるような、自尊心を高めるコンテンツを準備しろ。

この記事を書いた人
経営学博士。経営学は座学より実学をモットーに大学院在学時より、サラリーマンで修業。一部上場企業の財務、メガバンクでの不良債権処理、 上場支援、上場後の投資家向け広報、M&A、事業承継等を経験。 数千の経営者と身近に接することが多く、数多くの成功例や失敗例を見てきた。 一人でも多くの成功者を輩出することが自らの天職と考え、現在は独立し、起業家に対して、ファイナンスやマネジメントまわりのサポートを行っている。 起業家モチベーター。
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