子路が答えていった。「思うに、人が私らを信じないのは、私らまだ仁ではないからでしょうか。また、人が私らを止めて行かせないのは、わたしらはまだ智ではないからでしょうか。」
孔子が言った。「そんなことがあるものか。由よ、例えば仁者が必ず信じられるものなら、どうして伯夷・叔斉が飢えて死のう。智者が必ず行かれるものなら、どうして応じ比干が捉えられて虐殺されよう。」
子路が答えていった。「夫子の道は至大です。だから、天下は夫子を入れることできないのです。どうして、いま少しこの道を卑俗になさいませぬか。」
孔子が言った。「賜よ、良農はうまく種を撒くが、かならず収穫が良いとは限らない。良工は腕はさえているが、必ず人の好みを叶えるとは限らない。君子は道を修め、これに綱しこれに紀して、条理を整えることはできるが、かならずひとに容れられるとは限らない。今お前はお前の道を修めないで、人に容れられようと求めているが、賜よ、お前の志は遠大でない。」
(解説)
ビジネスの世界では、その人の理想を追求することが成功を確実に導くわけでもない。現実的には、子路の言うとおりに「いま少しこの道を卑俗」にした方が、世間的には受けると思われる。但し、個人の理想が社会の理想と一致していた場合には、卑俗にせずに道を究めるのが良い。
孔子の例えが何となく切ないのは、良い農家は種を撒くけれども収穫が良いとは限らない。良い職人は優れた腕を持っているが、人の好みのものを作れるかどうかはわからない。世の中は非常である。しかし道を究めて、社会の理想に近づけよと。それで途中で世の中に合わせてしまったら、志等たかが知れているというのである。
近年は、顧客ニーズもすぐに変わるため、大雑把な目標は決めても、その目標自体を途中で変更するぐらいの気持ちで取り組まなければ成功しない。
なお、シーズ型のビジネスに取り組む場合には、消費者に理解してもらうのは時間がかかる。この場合は、粘って道を極めないとならない。
[教訓]
〇道を極めず世俗にした方が、社会的に受ける。それは個人の理想が必ずしも社会の理想と合致するとは限らないからである。
〇顧客ニーズもすぐに変わるため、大雑把な目標は決めても、その目標自体を途中で変更するぐらいの気持ちで取り組め。